○会社説明

東山ビルの今昔

東山ビルの由来

東山ビルディング


会社名
東山興業株式会社
HIGASHIYAMA KOGYO COMPANY
会社所在地 〒103-0023
東京都中央区日本橋本町4丁目4番2号東山ビル (MAP)
設立
昭和29年3月31日
資本金 5,292万円
役員 取締役社長    猪股 徳臣
取締役       倉地 康孝
取締役       谷藤 晴紀
取締役総務部長 嵯峨山 和善
監査役       佐藤 重俊
事業内容 ビル賃貸業務
プロパティマネジメント業務
戸建賃貸業務
従業員数 13名






今川橋のあとどころ 東山ビルの正面玄関を一歩外へ出ると、右側に「今川橋のあとどころ」と書かれた記念碑があります。これは、昭和五十一年五月八日に東山興業株式会社によって建立されました。

 今川橋・・・・・この橋は、今はどこを探しても見出すことのできない過去のものとなりました。しかし、昔を知っている人には懐かしい、思い出の橋であったかと思います。

 東山ビル北側の細い道路−ビルの正面に向かって左側を境にして隣は千代田区になりますが、この細い道路の所を、昭和二十五年以前は竜閑川という川が流れていました(図-1参照)。

 この川は宮城の外濠(常磐橋のあたり)から東に向かって流れ、このビルのあたりを経て昭和通りを横切り、浅草橋から柳橋へと流れておりました。古い歴史の資料を見ますと、江戸時代の掘り割りとして、元禄四年(一六九一)に人工的に造られたことが記録されています(竜閑川は当初、神田堀と呼ばれていました)。

 また一方、東山ビルの玄関前に広い大通りがありますが、これは日本橋を起点とし、三越前・室町三丁目・神田駅前から須田町の方へ通じる「国道十七号」で、古くは中仙道と呼ばれ、板橋から長野県の諏訪・妻籠・馬籠を通り、名古屋へと通じています。即ち、東海道は太平洋岸を通り、中仙道は内陸部を通り、いずれも江戸時代における陸上交通の要路として賑わっていたようです。
図-1 図-1を見ますと日本橋から室丁・二丁メ・三丁メ・十間店・ノリモノ丁・カジ丁と書かれた通りがありますが、これが現在の国道十七号です。銀丁−、これは"しろがねちょう"と読み、後日、銀町(しろがね町)と改められ、東山ビルの位置する住所も昭和七年までは銀町(或いは"白銀町"と書かれた時代もありました)三丁目となっておりました。

 そして、この銀丁とノリモノ丁の間で竜閑川を横切る今川橋があったのです。更にこの図を見ますと、橋を渡った所に「ぜん右」と書かれた場所がありますが、これが元禄年間におけるこの界隈の名主「今川善右衛門」屋敷跡で、この人が造った橋ということから「今川橋」と名づけられたことが一説として残されています。

 先に竜閑川は、元禄四年に人工河川として造られたと述べましたが、その以前はどうなっていたか調べてみました。これを述べるには「振袖家事」について語らなければなりません。即ち、明暦三年(一六五七)一月十八日午后一時、本郷丸山の本妙寺から出火した火災は、冬季特有の異常乾燥と強い北風に火勢を得て、翌十九日の夜半まで、実に三十時間も燃えつづけたという大火災でした。

 江戸城も西の丸を残して全部焼失しており、江戸の全部が潰滅したといえば大げさ過ぎるかもしれませんが、おおかたの住民が罹災し、十万以上の死者が出たと記録されています。

 この火災が、江戸の町づくりに大改革をもたらしたといわれています。つまり、町の所々に火災の延焼防止対策として「火除け地帯」が考えられたことです。竜閑川の造られる以前は、ここも火除け地帯に指定されていたことが図-2から推察されます。かなり幅広い道路を東西に走らせ、この道の日本橋寄りに、 高さ二丈八尺(八・五米)の土堤を築き、更にこの土堤に松を植え、当時は「白銀町の松原」と呼ばれていたことが記録に残っています。

 しかし、火災がなければこの防火土堤も町民にとって無用の長物であり、たびたび取り除き請願が出されていたといわれ、となれば先に述べた元禄年間の竜閑川造成につながることも、至極当然のこととして考えられます。(小伝馬町の通りが竜閑川を横切る所にかけられた橋は、火除橋と呼ばれていました)。

今川橋のあとどころ以上に述べたごとく、歴史は、振袖家事−防火土堤−竜閑川−今川橋と流れているのですが、この竜閑川の姿を表わす川柳が残されておりますので、二つ三つ紹介します。

 ・跡びさり今川橋を帰る舟 ・跡しさり今川橋のはしり舟 この二句は、化成年間(1820−1830)のものですが、竜閑川の川幅がせまく、舟がUターンできなかったもよう。

 ・今川橋はちょろっこい橋 ・瀬戸物でちいさい橋をおっぱさみ この二句は文化十年(1813)に詠まれておりますが、図-3の絵にあてはめてみれば、その様子がうかがわれます。

 ここで、話を昭和十九年にすすめます。昭和十九年といえば、第二次大戦の東京大空襲があります。 日本橋界隈といえば、古くより東京における商業経済の中心地として栄え、通り筋には各種の店舗が軒をつらね、大変賑わっておりました。従って、東京空襲における恰好の目標地でありましょう。

 昭和十九年十一月三十日の初空襲以来、十数回の攻撃をこうむっています。最も大きかったのが昭和二十年二月二十五日夜と、三月十日夜の大空襲です。B29は百数十機の大編隊で、大型爆弾・油脂焼夷弾を交互に雲上から攻撃し、下町から日本橋地区は瞬時にして瓦礫の町と化してしまったのです。

 その後、昭和二十年八月十五日の終戦を迎え、人々は焼け跡から復興へとエネルギーを燃やし続けました。 進駐軍が東京都内にGHQ本部を置くことにより、都市環境整備の面から、特に蚊や蝿の発生源を撲滅するという目的から不要の河川埋め立てを計画したと聞いています。有楽町スキヤ橋の河川、銀座三原橋の河川をはじめ、この竜閑川も埋め立てられることになりました。東京都の資料によりますと「竜閑川埋め立ては昭和二十三年四月一日に着工、二十五年三月七日に竣工認可」となっています。

 その後、この埋め立てられた敷地は、隣接地所有地主を優先対象として売却するという都の方針により、当地の地主であった故・嵯峨山茂雄氏(前東山興業株式会社会長)もその一部を所得することを得、やがてビル建築計画へと進展することになったのです。

 かくて、昭和三十五年六月二十日に「東山ビル」の竣工となりました。
(猪股亀三郎)


東山水上行
 よく、テナントの方々やお取引関係の方から「いったい"東山"という名称は何を意味するのか?」「京都の 東山(ひがしやま)に関係があるのか?」などの質問を受けることがあります。

 そこでその名称の由来についてお話しいたしましょう。 まず、「東山」の読み方でありますが、「ヒガシヤマ」あるいは、「トウザン」または「トウサン」となりますが、会社名は「東山」(ヒガシヤマ)、ビルの名前としては「東山」(トウザン)が本当であります。

 さて、現在の東山ビル敷地の北側半分(神田駅寄り)は竜閑川の埋立地であったこと、そしてビル敷地の南側半分は、嵯峨山茂雄氏(当社初代会長・昭和四十年死去)の個人所有地であったこと、については「東山ビルの今昔」の中でお話しいたしましたが、この「東山」という名称は、その嵯峨山茂雄氏に深い関係があるのです。

 つまり、氏の出身地は「徳島県三好郡昼間町東山(ヒガシヤマ)字貞安」という所であり、ここから「東山」(ヒガシヤマ)がとり上げられたのが一つの事実であったのでありますが、もう一つの「東山」(トウザン)という名の由来を述べるために、もう少し嵯峨山茂雄氏についての説明を聞いて下さい。

 氏は戦前から日本橋本町四丁目の一角に薬業店を構えて盛業しておりました。日本橋本町といえば大阪の道修町とともに古くから薬種問屋の町として栄え、数多くの薬品問屋が軒をつらねていたところであります。

 ところが、戦争が激化するに伴い医薬品は重要な軍需品として指定され、次第に、一般民衆の間から姿を消して行きました。したがって食糧の欠乏と同時に、国民の健康は衰弱の一途をたどるのみとなったのであります。

 この頃から嵯峨山氏は戦争の行く末に疑問を抱くようになったのでありました。 もとより、戦争は国の存亡をかけた一億総決起のことではありますが、このように疲弊した国状で果たして戦いを継続して行けるのか?日本の将来はいったいどうなる?国民はどうなるのか?戦争という大義名分にかくれた人間同士の殺し合いは何によって裁かれるのか?

 日々を懊悩した氏は、このあたりからこの精神的な解決をおのずから宗教に求めるようになったのであります。 なかんずく、禅宗の一派である臨済宗を深く信仰し、寸暇を惜んでは鎌倉の円覚寺道場へ参禅し、きびしい修行を積んだのであります。

 ちょうどその頃、高知市臨済宗雪蹊寺で修行され、全国を行脚していた山本玄峰(晩年臨済宗妙心寺派管長となり"般若"という号で呼ばれた。)という高僧に知己を得て、師と仰いで精神面の救済を受けるかたわら、事業における諸問題についても、様々な指導を受けた−と聞いています。

 殊に戦後の、物心両面ともに混とんとした世相の中で、禅に発する処世の対応は様ざまな面で、山本師の指導によるものが多かったようであります。

 もちろん、東山ビルの建設についても、つぶさに師に相談されたそうですから、完成後の命名についても師の指導を仰いだことは容易に想像されます。このことは、ちょうどその時期に嵯峨山氏が、老師自ら揮毫された掛軸、 「東山水上行(とうざんすいじょうこう)」を頂戴していることによっても容易に察知されるのであります。禅に関する辞典によると、「東山水上行。雲門が、"如何ナルカ、是、諸仏出身ノ処"の問に答えし語。

 山は不動にして水は流動する−と見るが人情なれど、今は、山が水の上を流れて行く。宗旨は参じて知るべし。−槐安国語の一節より−」
 つまり、ある修行僧の問に師である雲門和尚は、「山は不動であり、水は流動するものである−と思うのは、行(努力)を知らない俗界凡人の考え方である。仏法の究極の深遠なる境地というものは、そのような常識的な思想では決して把握できないものである。

 真に、仏法究極の境地を知りたければ、まず自ら座禅(努力)に励まれよ。」と答えたというのです。("諸仏出身の処"とは、世の中にある総ての束縛を離脱して人間本来の自由自在な悟りの境地に達すること。禅語である。)すなわち「東山水上行」という語をもっと平易な言葉で言えば「山が水の上を流れて行く」ということであって、われわれ俗界からすれば、「不動であるべき山が水の上を流れる」なんてそんな馬鹿げたことを、と一蹴したくなるのでありますが、禅では、「馬鹿げたことは馬鹿げたことで良いではないか。一番大事なことは、人間が何かの疑問につき当たったとき、その打開を他に求める=頼ることではなく、自分が自分の努力によって切り開いて行くことである。禅の言葉を借りれば"宗旨参じて知るべし"」となりましょう。つまり、嵯峨山茂雄氏はビルの命名にあたり「東山水上行」こそ、このビルに居住されるテナントの方々が、 「絶えざる努力によって繁栄を遂げられる様(すがた)」にそのままつながるもの−と考え、テナントの業績発展を祈る気持ちから、こうして臨済宗の深奥に溯る言葉を、このビルディングの上に冠したものと思われるのです。きびしい世の諸想を「努力してとらえるもの−」観じて、「東山」という語を選んだのでしょう。 したがってビルの名称は「東山(トウザン)ビル」とされ、会社名は嵯峨山氏の出身地の地名に深くあやかって「東山(ヒガシヤマ)興業株式会社」とされたのであります。
(猪股 亀三郎)


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